町石道、高野街道などの高野山への道と高野山の道

このホームページでは、高野山への表参道である「町石道」を中心に、西高野街道高野街道を経て近年になって最も利用されるようになった不動坂口に至る京大坂道(不動坂道)、平成の町石道として整備された三谷坂(勅使坂)を越え丹生都比売神社に至り町石道へとつづく三谷坂道、大和街道から町石道・矢立へと辿る麻生津道、鉄道の歴史に翻弄された新高野街道などの高野山へ至る道とともに高野山内の女人道、高野三山を巡る道、高野山駅や極楽橋駅への道、町石道からのエスケープルートとしての紀伊細川駅や上古沢駅への道、町石道から登る小都知ノ峯や雨引山、町石道と天野の里・丹生都比売神社を結ぶ道等々を地図だけでは分かりにくい分岐などを含めた豊富な写真で紹介していきたいと思います。

町石道と町石

弘法大師空海が真言密教の根本道場として平安時代(弘仁10年 - 819年)に開いた高野山へは山中を掻き分けた険しい山道を辿ります。その表参詣道である「町石道」には慈尊院から大門口を経て壇上伽藍・根本大塔までの道しるべとして木製の卒塔婆が1町(約109m)ごとに建てられていましたが、腐朽が甚だしくなったため、鎌倉時代に20年の歳月をかけて高さ約3m(地上:2m、土中:1m)、角30cmの五輪卒塔婆形の石柱に建て替えられました。高野山は空海没後、東寺との確執、雷火による堂宇消失などで一時は衰退の危機に陥りますが、現世浄土として御堂関白藤原道長の登山を契機に、二世安楽、欣求浄土を願う当時の世相もあって広く信仰を集めます。鎌倉時代に入り、幕府の外交戦略によって予想される蒙古襲来に備えて1275年9月、諸国一宮・国分寺以下の諸大寺社に対して異国降伏の祈祷が命じられ、その一環として町石寄進事業も進められたようです。
当時は神話の世界がまだまだ色濃く残り、神と人とが一体になっての蒙古との戦いで、高野山の地主神である丹生都比売神社の祭神・丹生明神(天照大神の妹神)は神功皇后の三韓征伐にも霊験を顕し、来る蒙古との戦いにも大いに活躍が期待されたものと思われます。このような時代背景の中、高野山の覚きょう上人が高野山とも深い繋がりをもった有力御家人である安達泰盛に働きかけ、町石建立事業が進められます。1265年(文永2年)に勧進が発起された町石建立事業はちょうど20年後の1285年(弘安8年)に完成します。
(【蒙古襲来】文永の役:1274年,弘安の役:1281年)
町石建立事業に大いに関わりを持った安達泰盛(町石を個人最多の5基寄進、一族では11基寄進)は、執権時宗の外戚として幕府中枢に威を振い、時宗の死後も実権を握りますが、その2年後の1285年(弘安8年)10月21日に高野山で執り行われた町石落成供養に出席した後一月も経たない11月17日、鎌倉において政敵により一族が滅亡させられます。
慈尊院(高野政所)から大門を経て根本大塔までの町石180基は胎蔵界180尊を、奥の院・弘法大師御廟までの36基は金剛界37尊(1基足らないのは弘法大師御廟を1つとして数えるからだといわれています)を表現したもので、合計216基の町石が置かれていますが、今なお150基の石柱が建立当時のまま残り、2004年7月には「紀伊山地の霊場と参詣道」としてユネスコの世界遺産にも登録されました。

高野山への道